明後日、あの日から30年になる。
日航123便が御巣鷹の尾根に墜落したあの日から。
30年という節目の年だからか、御遺族の手記が出版されたり、
マスメディアでも取り上げられるようになっている。
TBSでは、事件に基づいたドラマを放映する。
テレビ朝日では、報道ステーションで、空中で事故機を目撃した、
元航空自衛官のインタビューなどが、今日、放映された。
空中で目撃した元自衛官は、エンジンが4つある機体だと判断できたので、
何かトラブルが起きているようだけれど、ジャンボジェットだから、
そんなに大きなことにはならないだろう、と輸送機のコックピットで、
同僚の自衛官と話していたという。
事故当時、ジャンボジェットは安全な飛行機、と言われていたから。
入間基地に帰還したあと、日航123便が行方不明になったと知り、
驚いたのだった。
何故、あの時、123便を追尾しなかったのか?
何故、東京航空管制センターに、123便の空中での状況を伝え、
123便と日航にも、機体の損傷状況を伝えなかったのか?
あの時、そうしていれば…という後悔を、その元自衛官は、30年間にわたり、
引きずり続けてきたのだった。
何て苦しい30年間だったのだろう。
墜落は避けられなかったとしても、
もし、追尾していれば、墜落地をもっと早く特定でき、
生きて家族の元に帰れた人も、もっといたかもしれない。
そんな重い後悔を抱えて生きてきた30年。
あまりにも重く、辛すぎる…。
あの日、123便は垂直尾翼の破損により、油圧系統を破壊され、
操縦不能に陥った。
コックピットクルーはその状態で左右のエンジン出力を調整することで、
何とか機体をコントロールし、羽田に帰還しようとした。
横田基地への緊急着陸も検討されていた。
しかし、真夏の1985年8月12日。
秩父上空に積乱雲が発達し、123便の進路に立ちふさがった。
機体のコントロールが正常な状態でも、航空機が積乱雲に突っ込むのは、
墜落の危険を増してしまう、 危険な行為だ、
油圧系統を破壊された123便には、積乱雲を避けて飛ぶしか方法はなかった。
こうして、123便は御巣鷹の尾根に、激突した。
報道ステーションでは、墜落地点の特定に関してのインタビューも放映。
しかし、何故か元米軍中尉アントヌッチ氏の証言と、
朝日新聞の取材機ちよどりが墜落地点をいち早く特定していたことは触れず、
30年前は今ほど機器の精度高くなかったので、墜落地点の特定に、
時間がかかった、という論調になっていた、
ニュース番組の一部として紹介するには、題材が重く
長くなりすぎる、からだろうか。
30年経っても、謎が謎を呼ぶような状態。
でも、決して風化させてはいけない。
絶対に。